待宵草の薄暮日記

今は趣味三昧の気ままなひとり暮らし。 覚悟をもって毅然と、でも時には誰かのために熱くなる、そんな日々の徒然を綴っています。

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在宅という選択・・・追想16

ふと思うことがある。病院でなく在宅で本当に良かったと。

職場から自宅に戻れば、必ずそこに母がいる。夜中目が覚めても、すぐに確かめることができる手の届くところに母がいる、この安心感。

もし入院していたらどうなっていただろうか。まず神経質な母は身が持たない。それに私とて、この上病院の往復ともなれば、時間的にも体力的にも負担が大きすぎて、母とゆっくり向き合うこともできなくなっていただろう。

昔、40代の若さで亡くなった伯父を最期に見舞った大学病院の、古いがん病棟の暗い廊下で聞いたうめき声が忘れられない。それが幼い頃のトラウマとなって、病院から足を遠ざけるようになったのかもしれない。

今は、千里ペインクリニックの在宅ホスピスにすべてを任せている。そこに一切の迷いはない。

母は少しずつさらにやせ細り弱っていくが、次にどんなことが起こり得るのか、会話の中で医師や看護師からさりげなく諭されて、慌てることも少ない。仮に予測できない事態になったとしても、きっと全力で対応してもらえるという信頼感がある。

幸運だと思う。自宅に帰りたいのに帰れない人もいるというのに。

(2007年1月)
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| 追想記 | 18:30 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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夜の薬局・・・追想15

在宅ホスピスでは、外来診療と同じように、訪問医が書いた処方箋を持って薬局に行き薬を受け取る。そこに書かれた様々な種類の薬の中には、疼痛緩和のためのオプソやオキシコンチン、デュロテップパッチなど麻薬が含まれているので、薬剤師は当然病人が末期のがんであることは見て取れるだろう。

私は利便性の面から、自宅近くの駅から少し離れたスーパーの向かいにあって、比較的遅くまで開いている処方箋薬局を利用していた。仕事を終えて疲れた体と心を引きずりながら薬局にたどり着くと、そこだけ蛍光灯の光が白く明るい。その無機質な感じが私にはちょうど良かった。

薬剤師は何人かいたが、私の姿を見ると必ず白衣を着た初老の主が出てきた。処方箋を手渡し、長椅子に腰掛ける。

毎週夜の閉店間際に、暗い顔をして入ってきて劇薬を抱えて言葉少なに帰っていく、一人で病人を看ながら働く私は、この店でどんなふうに映るのだろうか・・・気の毒そうに腫れ物に触るような視線を避けて目を伏せる。

別室で主は調剤していた。しばらく待つと名前が呼ばれてカウンターに行く。薬の説明以外、余計な言葉は交わさない。でもその無表情な眼鏡の奥にある、昔気質できっぱりした職業的な律儀さは十分伝わってきた。寡黙もまた救いだった。

薬を受け取り、白い灯りを背にして暗がりの中、家路を急いだ。

(2006年12月)

| 追想記 | 17:10 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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決別・・・追想14

いよいよ年の瀬。毎年年末ギリギリに駆け込みで美容室に行って、なんとかスッキリとした髪でお正月を迎えていた。

私はヘアスタイルの変化を楽しむ方で、何年か通っている美容室の若手の店長が、私の好みやライフスタイルを熟知していて、今ではひとことふたこと伝えるだけでほぼパーフェクトに要望に応えてくれる。たまに店長が提案するちょっとアバンギャルドなスタイルでさえ気に入ることが多かった。

でも今年は時間がない、気持ちにも余裕がない。私は美容室に行くことを諦めた。そして、ハサミを取り出し、鏡の前に立ち、意を決して、じょきじょきと伸びた髪を切りはじめた。

私の中で、また一つ、何かが切り断たれていく。

これまで当たり前で普通だった世界が急に遠のき、考えたこともなかった世界が近づいてくるような感覚。仕方ない、これでいいんだと自分に言い聞かせる。

長い間本当に幸せだった。この幸せは永遠でないことはわかっていたし、終わりの近いことも予感していた。そして、それは突然にやってきた。母の末期がんというかたちで。

私は母のお蔭で、もう充分に幸せを享受してきた。あとは母を全力で見送るのが私の務め。幸いにも千里ペインクリニックの在宅ホスピスという最高のサポートを得て、最善が尽くされている。

ぬくぬくと満たされた日々は戻らない。自分で髪を切ったように、過去と決別するときがきた。

(2006年12月)

| 追想記 | 11:57 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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望みはひとつ・・・追想13

師走に入り仕事は年末商戦の真っ只中、日を追うごとに忙しさが加速してきた。例年ならそれもやり甲斐の一つであったはずだが、今年は事情が違う。

検査結果を聞いた病院で余命2ヶ月と告げられてから、早その2ヶ月が経とうとしていた。

母はまだ普通に暮らしている。横になる時間は長くなったが、1日中ベッドの上にいるわけではない。少しずつ量は減ってきたものの朝昼晩と食事をし、おやつも食べ、自分で着替え、トイレもお風呂も今のところ不自由はない。好きなタバコも1日3本吸っている。

週4日は千里ペインクリニックが往診に、週2日は知人が手伝いに、そして度々親類も見舞いに来てくれた。テレビを見たり、話をしたり、のんびりと過ごしているようだ。

ただ痛みと倦怠感は以前より増してきた。夜、がんが暴れて、翌日ぐったりすることもある。がんは確実に広がり転移しているにちがいない。でも、それは想像でしかなかった。母の身体の中で何が起こっているのか、緩和ケアを受けているだけの私たちには、何も知る術がない。

多くのことは望まない。ただひとつ、母を痛みから救ってほしい。たとえ私の寿命を削ってでも、安らかな時間を与えてほしいと祈った。

クリスマスには例年のようにホールケーキを買って二人で平らげた。私はあまりの忙しさに途方に暮れて、すべてを投げ出してしまいたい衝動に駆られることもあったが、何とか持ち堪えた。

余命宣告のあと、母と一緒に新年を迎えることはもうできないと覚悟していた。でもこの調子なら年を越せる。そしてお正月を二人で過ごせると思うと、無性に、無性に嬉しかった。

(2006年12月)

| 追想記 | 23:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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母の味を忘れないように・・・追想12

12月は私の誕生月だった。おめでとうと言われて嬉しい年頃はとうに過ぎていた。幸か不幸か、母からはそんなくすぐったいセリフをこれまで聞いたことがない。

でもいつの頃からだろうか、その日になるとお赤飯を炊いて尾頭付きの鯛まで焼いてくれるようになった。いつまでも独りでいる娘が、内心不憫に思えたからかもしれない。

けれど、もうそれも叶わない。母はこの1ヶ月、台所には立っていなかった。2度と母の手料理を食べることができないという現実が、突如胸に迫ってきた。五感のうちの一つを失うような気がした。

私はどうしても諦めきれなかった。そして、無理を承知で、おぜんざいをつくってほしいとせがんでみた。母は、病人につくらせるのかと驚いた振りをして、苦笑しながら引き受けてくれた。

誕生日当日、外出から戻ると、家中甘い香りがたちこめている。ガス台上の大鍋の蓋を開けると、艶々した小豆がふっくらと炊けていた。甘味が強めのいつもの味。冬は白玉を浮かべておぜんざい、夏は寒天にかけて冷やしぜんざいと、子供の頃からずーっと馴染んできた味。

熱々のおぜんざいを二人で食べる。

片付けをした後、冷めたおぜんざいをタッパーに移す。来年の誕生日、母の思い出がいっぱい詰まったこのおぜんざいを、一人で食べる自分を想像しながら、タッパーを冷凍庫の奥にしまった。

(2006年12月)

| 追想記 | 00:30 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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がんで良かった・・・追想11

「がんで良かったですよ」と、看護師の一人が言った。
決して軽々しく言い放たれた言葉ではない。何年も自宅で最期を迎えるがん患者を見届けてきた人の、重みのある言葉だ。

人は皆、歳を重ねて先が見えてくると、どうか自分だけはポックリ死なせて欲しいと願う。でも本当にそれでいいのだろうか。大切な人に想いを伝えて別れを告げることもなく、突然あの世に旅立つのは、人生の仕上げとしては中途半端ではないか。死を覚悟して臨む最期にこそ人生を凝縮した哀歓があり、より深く人生を味わう。もちろんそれには少なからず苦痛が伴うけれども。

私も、「そうですね」とうなづく。が、ただしと心の中で続ける。それは、私たちのように在宅ホスピスの手厚い緩和ケアを受けて、あらゆる症状を管理される恵まれた環境にある者に限っては。

私たちも一つボタンを掛け違えていれば、今頃どうしていただろうか。病院の抗がん治療でベッドから立ち上がることもできないか、あるいはどこからも見捨てられて頼る場所もなく、自宅で苦痛と絶望に苛まれていたかもしれない。

千里ペインクリニックとの出会いが分かれ道だった。こうして住み慣れた自宅で普段通りの生活ができて、母は、いつでも好きなものを食べ、誰とでも会えて、行きたいところにも行けるし、残された時間を自由に使うことができる。本当に幸運だったと思う。

あと数ヶ月の命と言われて、迫りくる別離の時に恐れ慄きながら、私は毎日毎日、否1分1秒に心を注いで、母だけを見つめて支えていく。そんなことができるのも、がんという病だからかもしれない。

(2006年12月)

| 追想記 | 22:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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最後の旅行・・・追想10

伯母が旅行に行こうと誘った。私は急いで宿泊の手配をした。贅沢だったが、山陰天橋立の小さな岬にある木立に囲まれて落ち着いた風情の文殊荘松露亭に宿を取った。

元気なときでも、母はこんなに間隔を空けずに出掛けたことはない。私が仕事から戻ると、まだ2日前だというのに、すっかり旅行の準備を整えて、もういつでも出掛けられると言ってニッコリ笑った。子供のように心待ちにしているようだった。

こんな母を初めて見た。出不精で腰の重い人だったはずだが。

当日は体調も良さそうで、伯母を乗せてちょっと賑やかに車で出発。これまで何回となく、こうして3人で旅行してきた。切羽詰った気持ちが、この日ばかりは少し和らいでいる。

20年以上前、電車を乗り継ぎ二人で初めて訪れたときも、確か初冬で同じ頃だった。駅前のひなびた食堂に入ると女主人が私たちの顔を交互に見ながら、「母娘で旅行なんて羨ましいね」と言ったのを何故か鮮明に記憶している。母も覚えていただろうか。

宿に着くと、さすがに母は疲れた様子で、一旦床をとって横になった。急変しないかと心配したが、夕食時には回復し、ご馳走に舌鼓を打った。

翌日も穏やかな晴天だった。取り留めなく他愛のない話を三人でしながら、天橋立をゆっくりと散策した。伯母が母娘二人の写真を撮る。向い合って笑顔でポーズをつくってみせた。

何も違わない、これまでの旅行と。そんな風にも見えた。でも、母は無理をしていたと思う。一度もそのことには触れないが、娘と過ごす残りわずかな時間をいとおしんでいたにちがいない。

(2006年12月)

| 追想記 | 00:40 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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奇跡を祈る想い ・・・追想9

夜になると少し痛みが出るようだった。母は昔から寝つきの悪い方で、ここ最近はレンドルミンが離せない。しかし、食欲はあり体調は悪くなかった。

家に帰ると、よく千里ペインクリニックの先生やスタッフの話を楽しげにした。誰それが犬を飼っているとか、誰それが近くに住んでいるとか、誰それに美味しいお蕎麦屋さんを教えてあげたとか。それは他愛のない話ばかりで、今直面している深刻な事態については何も触れなかった。私もどこか避けていた。こうして二人で向き合える時間を曇らせたくなかった。

以前から私はドライブが好きで、家から半径2時間以内の定番コースがいくつもあり、お気に入りスポットがあった。たいがいは親しい友人と情報交換しながら開拓した愛着のあるコースで、その後お互いが家族を連れてもう一度ドライブというのがパターンだった。

『今度母を連れてこよう』、そう思っていた場所があった。今を逃すとチャンスはないかもしれない。秋の深まった週末に二人で行くことにした。

六甲山にはもう何度も来ていた。新緑や紫陽花の頃が多かったと思う。そのちょっと西、箕谷から住宅街を抜けた突き当たりに目的の場所、弓削牧場があった。牛たちがのんびりと草を食み、赤いサイロが見える、ここは別世界。レストランの窓際にあるカウンター席で外を眺めながら食事をした。

近くの神戸市立森林植物園に着くと、メタセコイアの大木が出迎えてくれた。ゆっくりと池に向かって歩いていく。鮮やかな紅葉だった。赤や黄の葉が幾重にも重なり、燃え尽きようとする命が輝いて見える。

紅葉をバックに母を立たせて写真を撮った。
写真嫌いの母が、カメラに向かって一生懸命笑顔をつくる。私は夢中で何度も何度もシャッターを切った。

(2006年11月)

| 追想記 | 21:30 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

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遠い家路 ・・・追想8

私は自ら望んで転職し中堅の食品会社に勤めていた。営業部に在籍しながら、新商品の企画をしたり、通販を立ち上げたり、アンテナショップの開発や運営にも関わった。時々は宣伝販売や展示会要員として早朝から駆り出され、人手が足りなければ製造ラインに入ったりピッキングも手伝い、商品を車に積んで配送にも行った。ついでに工場見学の案内係もしていた。

仕事はハードで力仕事も結構あって体力勝負のところがあった。私には4種類のユニフォームが支給され、1日に何度も着替えることがあったが、変化を楽しんでいた。社内では異色だった。

母が末期がんとわかってからは、さらに集中して極力残業を控えた。そして職場ではいつもイライラと落ち着きなく動き回っていた。

仕事を終えて車を走らせる。
辺りはもうどっぷりと日が暮れて、家々の窓には明りが灯り、家族が食卓を囲んでいる。

一刻でも早く帰りたい。
1分1秒でも早く母の顔が見たい。

もどかしく想いが溢れて、車は毎夜涙の捨て場所となる。

(2006年11月)

| 追想記 | 23:20 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

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束の間の休息 ・・・追想7

街は色づき始め、穏やかな日が続いた。

初めてオプソを飲んだときはフラフラするようだったが、多少の痛みや倦怠感はあるものの、その都度千里ペインクリニックの適切な対応で母の体調は良いように見えた。食欲もあり、家の中で普通に動いていて、本当にこれで末期がんなのかと疑いたくなる。

近くの親類が、度々いろんなご馳走をたずさえて様子を見に来た。必要最小限の家事は週2、3回知り合いに頼んで、夕食だけ私がつくって一緒に食べた。

母は、私の留守中に預金、証券、保険などの財産を整理し引継ぎの準備をしているようだった。これまで家事だけでなく金銭管理もすべて母が一手に引き受けていた。私は家の経済状況に無頓着でほとんど何も知らされていない。

その日は朝から抜けるような秋晴れだった。紅葉もそろそろ見頃を迎える。居ても立っても居られず会社を早退しクリニックの訪問もキャンセルして、母と紅葉を見に箕面へドライブに出かけた。愛犬を連れて勝尾寺をゆっくりと散策。燃えるような紅が目に沁みた。

今年が最後の紅葉。来年、もう母はいない。

(2006年11月)

| 追想記 | 01:48 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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