送られてきたパンフレットを見たときから、いつか訪ねてみたいとずっと温めてきた、湖北の観音めぐり。毎年春と秋の1日に一斉公開され、周遊バスや巡回バスが運行されているようでした。
↑ クリックで拡大 ぼやけてますが(汗)
今年はコロナで観音の里ふるさとまつりは中止。ならば一人でと、尾上温泉に宿を取りました。その後、紅葉で有名な鶏足寺・石道寺までも拝観中止に(涙)。
歴史ある湖北・高月町や木之本町周辺には、いくつもの小さな集落が点在。その集落ごとに里人が無住のお寺で観音さまを守っています。長浜観光協会に世話人の連絡先を問い合わせ、一軒ずつ拝観の予約を。私一人のために申し訳なくて恐縮でしたが、皆さま快く受けてくださいました。
1日目は、霊応山観音寺(黒田観音寺)から。山を越えると余呉湖という麓にお堂がありました。傍らには、復興に尽力した保崎谷長者と呼ばれた豪族のお墓が。黒田官兵衛の祖先とされているそうです。
お厨子が開けられると、思わず声を上げずにはいられない迫力。こちらは行基作と伝わる千手観音《重文》。199cmという堂々たる像高もさることながら、肉付きがよく丸みを帯びた左右18の御手のしなやかで優美な動きに見惚れます。正面の印相が千手観音らしくないところから准胝観音に近いとの説も。
↑ 観音の里 念持仏カード
すぐ近くの大澤寺はお参りだけして、紅葉を愛でます。
午後から医王寺へ。集落が途切れ山中を走っていると辿り着けるのか不安になりましたが無事到着。こちらの十一面観音《重文》は、明治20年に医王寺の僧・栄観が長浜市の美術商の店頭で見つけて買い受けたということです。己高山仏教圏のどこからか流出したのだとか。
井上靖が小説「星と祭」で、清純な乙女の体がモデルに使われてでもいそうに思われると紹介しているそうで、少し小柄で華奢だけどきりっとした佇まい。恥じらうような伏し目、頭上や胸元の華やかな装飾、足元までたっぷりある天衣が左右に広がり振り袖みたいで、花嫁さんのようだといわれるのに納得。薄っすらと金箔が残って輝いておられました。
↑ 観音の里 念持仏カード
次は安楽寺釈迦堂(尾山釈迦堂)に向かいます。こちらは藤原時代500人もの僧が修行する道場だったとか。現在は釈迦堂を立て替えた収蔵庫のみ。
扉が開くと、は? 目の前にどっしりとした大きな座像が2体。それも、仏教の開祖・釈迦如来《重文》と密教の最高位・大日如来が並んでおられるから驚き。大日如来がご本尊とのことなので、本堂と釈迦堂からこちらに安置されたということでしょうか。
話し込みすぎて、あっという間に時間が。今日最後となる慈光山冷水寺へ急ぎます。
行基が観音像を刻み開いたというお寺が、戦火により焼失。焼損した痛ましいお姿のご本尊・聖観音菩薩は、冷水寺と改められたお堂に秘仏として安置されますが、元禄15年に京都で鞘仏・十一面観音座像が造られ台座内に納められた、という伝承だったそうです。
平成8年の観音堂修復の折、これまで伝承だけで誰も見たことがない胎内仏が鞘仏の中からお姿を現されたのだとか。その時の感動が伝わる小さな胎内仏資料館がありました。
江戸時代の観音さまですから、彩色も美しく胸飾りの瓔珞も輝いています。
どの仏さまも、度重なる戦火や廃仏毀釈の難を逃れて生き延びてきた力強さと哀しみを内に秘めておられるような気がします。同時に里人の篤い崇敬と祈りを感じずにはいられません。集落だけで守っているとは思えないほど美しく立派な仏さまばかり。
世話人の方々は、一様に温かく迎えてくださって詳しくお話をしてくださいました。有り難いことです。場所によっては限界集落というところもあるそうで、過疎化・高齢化が進む中、観音さまを守っていくことの厳しさにも触れる観音めぐりとなりました。
しかし、こんなにカーナビ(データ更新したばかり)が当てにならないとは。名称でも住所でも登録されていないので、道に迷う迷う。西野薬師堂は時間切れで辿り着けずとても残念。
4時過ぎに琵琶湖畔の尾上温泉・紅鮎に到着。早速お部屋の露天風呂に浸かって、野鳥の群れの鳴き声や水音を聴きながら、沈みゆく夕日を眺めます。あー極楽、極楽。